“八十里 腰抜け武士の 越す峠”
拙ブログでも、たびたび登場する幕末の長岡藩家老、河井継之助公が、北越戦争に敗れ、只見町に活路を求めていく道中に詠んだ句とされており、司馬遼太郎氏の名作“峠”のタイトルをも惹起する有名な句です。
この舞台となった八十里越に、大きな、大きな第一歩が印されようとしております。
かつては、越後と会津を結ぶ主要幹線ルートであった八十里越。
今でも、福島県只見町に行けば、下田地域から嫁がれた家も少なからずあり、そのときの余韻は幾ばくかは残っておりますが、大正や昭和に入り、鉄道の発達や自動車の発達により、人馬による往来を駆逐していくようになると、八十里越は完全に時代に取り残され、“追憶の彼方”に葬り去られようとする状態に…
かつては、越後側の玄関口として大いに賑わいを見せた吉が平も、廃村に追い込まれるほど、当時の面影を追い求めることが困難なほどになっております。
でも、私たちの先人達は、それだけでは挫けませんでした。
長年に亘る交通不能区間の解消に向けた運動によって、わずかづつではありますが、自動車が通行可能な道路開削が続けられました。
そして、一昨年11月、ついに、県境トンネルが貫通し、全長わずか33mの橋梁さえ完成すれば、“物理的”に自動車での往来が可能となるところまで至りました。
もちろん、全面的な供用開始には、残り20を越えるトンネルや橋梁などの主要構造物を作り上げなければなりませんが、その前に、“物理的”に自動車での往来が可能となる状況に工夫を加えた“暫定的供用”というカタチで、その果実を味わってみたい。
そんな想いから、昨日、福島県只見町さんを始めとする多くの関係機関とともに、“八十里越道路暫定的活用検討懇談会”を立ち上げました(関連記事はこちら)。
この会合では、まず、先に申し上げた33mの橋梁が完成するまでの間、でも事実上は、仮橋で繋がっている現時点での状態を“レベル0(つまり、33mという仮橋の区間のみ歩行するカタチを取りつつ、限定的に往来を可能とするレベル)”、そして、33mの橋梁完成後(恐らく数年後)の“物理的”に自動車での往来が可能となる状態を“レベル1(つまり、限定的に自動車で人とモノが移動できるレベル)”に分け、それぞれの制約下における活用の在り方を検討することとなりました。
その結果…
なんと、なんと…
7月26日に“歴史的な第一歩”に踏み出していくことが決まりましたっ!!!
これは、33mの仮橋区間が“歩行のみ区間”であることを逆手にとって、只見町小学生を始めとする只見町の方々に、この場所を渡り初めいただき、その後、そのまま三条側にクルマで入っていただこうというものです。
これはまさに、“時空を超えてつながる越後と会津”の象徴的な画期的な大事件ですっ!!!
長年、ず〜っと、絵空事と思われていた八十里超を通じた人の往来の再開が、ようやく、ようやく、ようやく実現することとなりましたっ!!!
多くの方々とともに、この歴史的記念日を迎えたいと思います。
ところで。
この八十里越に掛ける只見町側の想いの深さ、期待の大きさは尋常ではない、私どもとは比較にならないほどのものがあることを、昨日の懇談会でヒシヒシと感じることとなりました。
今年秋には、1日限定の“レベル1”を実現させてほしいという熱き想い…
この期待にどのように応えればいいのか…
私どもにとっての“嬉しい”課題がまた1つ積み上がりました。